英語という外国語を横目で眺め、その文字を持ってきて、日本語論理の全角文字で表示してしまう。これは結構スゴイことである。こんな荒技が繰り広げられるリングであるからして、さらなる言語的格闘技が成立する。
これをお読みのあなたもきっと聞いたことのある、「日本語では何々だが、英語その他の言語では絶対にあり得ない」式のウソ話がガヤガヤと闊歩するのもこのリング上である。古典的なやつをひとつ、ご紹介申し上げましょう。
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これはある大新聞にのっていた記事だからほんとうの話だろうが、ある大学の運動部の選手がアメリカ遠征をした時のことである。
連日の肉食に飽きた某君が、魚を食べたくなって、レストランのウエイトレスに言ったそうだ。
”I am a fish.”
聞いたウエイトレスがびっくりしたことは言うまでもない。…
<中略>
まことに日本語とは融通無碍なるものだと感心するが、決してでたらめなのではない。ことばにはちゃんときまりがあるのだが、ふだんはそれに気づかないだけだ。それが外国人の目から見たり、日本人が外国語を話す時になって、はじめて問題点に気づくのである。自覚とはこんな具合にして始まるものなのであろう。…「ダ」は西洋文法の枠組では、とうてい説明がつかない。
(奥津敬一郎『「ボクハ ウナギダ」の文法(くろしお出版)1978年より)
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今日となっては、「ある大新聞にのっていた記事だからほんとうの話だろう」という前置きからお笑いのネタになってしまいそうだが、それは著者の責任ではない。信用を失うようなことをやり続けた大新聞が悪いのである。それは置いといて。
ここでの問題は、「僕はうなぎだ」に(文法的に)相当する表現が英語にはないという主張である。もちろん、ある程度英語に慣れている人なら、「僕はうなぎだ」式の表現ぐらいポッと出ることを知っている。
もちろん、英語と日本語は別々の言語なんだから、何もかも日本語と同様になるはずはない。そんなことを言い始めたら「相当する表現」は存在しないことになろう。しかし、ここで議論されている「僕はうなぎだ」式の表現ぐらいなら英語にもありますよ、と主張することは十分にできる。そうしてこそ、「いや、そうは言っても…」「いやいや、でもね…」という健康な議論が進行することになる。
ところが、ここでは全否定なのだ。「僕はうなぎだ」式の表現は日本語独特にして特有のものであり、英語なんかにはないよね、とおっしゃるのである。
もう、お気づきでしょう。ここでは英語と日本語が比較されているわけではない。「私が英語ってこんなんだろと思い込んでいるもの」と「世にも独特な日本語」が比較されているのである。「英語ってこんなんだろ」…これこそ、まさしく全角文字のアルファベットの棲息する不思議な領域に発生する概念なのであります。
「日本には四季がある(ヨソにはない!)」式の、無知に基づく誤謬はいろいろある。まぁ、無知というのはそういうものなので、それを邪悪として糾弾する必要もなかろう。ある意味、可愛らしいじゃないですか(いつまでもそうは言っておれんけど)。
しかし、こと言語に関しては、無知に基づく誤りがあまりにも根深く広く頑迷である。特に日本という国において、英語という言語は特殊な思い込みをテンコ盛りに盛られている。国の指針(特に教育関係)に大間違いが出現し、(無理矢理)承認され、予算(=我々の税金)が動くという事態に至っている。
これはいかなるわけか。どーなってるのか。それを少しずつ眺めていくのでございます。
これをお読みのあなたもきっと聞いたことのある、「日本語では何々だが、英語その他の言語では絶対にあり得ない」式のウソ話がガヤガヤと闊歩するのもこのリング上である。古典的なやつをひとつ、ご紹介申し上げましょう。
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これはある大新聞にのっていた記事だからほんとうの話だろうが、ある大学の運動部の選手がアメリカ遠征をした時のことである。
連日の肉食に飽きた某君が、魚を食べたくなって、レストランのウエイトレスに言ったそうだ。
”I am a fish.”
聞いたウエイトレスがびっくりしたことは言うまでもない。…
<中略>
まことに日本語とは融通無碍なるものだと感心するが、決してでたらめなのではない。ことばにはちゃんときまりがあるのだが、ふだんはそれに気づかないだけだ。それが外国人の目から見たり、日本人が外国語を話す時になって、はじめて問題点に気づくのである。自覚とはこんな具合にして始まるものなのであろう。…「ダ」は西洋文法の枠組では、とうてい説明がつかない。
(奥津敬一郎『「ボクハ ウナギダ」の文法(くろしお出版)1978年より)
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今日となっては、「ある大新聞にのっていた記事だからほんとうの話だろう」という前置きからお笑いのネタになってしまいそうだが、それは著者の責任ではない。信用を失うようなことをやり続けた大新聞が悪いのである。それは置いといて。
ここでの問題は、「僕はうなぎだ」に(文法的に)相当する表現が英語にはないという主張である。もちろん、ある程度英語に慣れている人なら、「僕はうなぎだ」式の表現ぐらいポッと出ることを知っている。
もちろん、英語と日本語は別々の言語なんだから、何もかも日本語と同様になるはずはない。そんなことを言い始めたら「相当する表現」は存在しないことになろう。しかし、ここで議論されている「僕はうなぎだ」式の表現ぐらいなら英語にもありますよ、と主張することは十分にできる。そうしてこそ、「いや、そうは言っても…」「いやいや、でもね…」という健康な議論が進行することになる。
ところが、ここでは全否定なのだ。「僕はうなぎだ」式の表現は日本語独特にして特有のものであり、英語なんかにはないよね、とおっしゃるのである。
もう、お気づきでしょう。ここでは英語と日本語が比較されているわけではない。「私が英語ってこんなんだろと思い込んでいるもの」と「世にも独特な日本語」が比較されているのである。「英語ってこんなんだろ」…これこそ、まさしく全角文字のアルファベットの棲息する不思議な領域に発生する概念なのであります。
「日本には四季がある(ヨソにはない!)」式の、無知に基づく誤謬はいろいろある。まぁ、無知というのはそういうものなので、それを邪悪として糾弾する必要もなかろう。ある意味、可愛らしいじゃないですか(いつまでもそうは言っておれんけど)。
しかし、こと言語に関しては、無知に基づく誤りがあまりにも根深く広く頑迷である。特に日本という国において、英語という言語は特殊な思い込みをテンコ盛りに盛られている。国の指針(特に教育関係)に大間違いが出現し、(無理矢理)承認され、予算(=我々の税金)が動くという事態に至っている。
これはいかなるわけか。どーなってるのか。それを少しずつ眺めていくのでございます。