私のような貧乏人は、映画を見に行くことがとても贅沢に感じられる。新作映画を見に行けば2000円近く取られる。これに交通費だのなんだのがかかると、ずいぶんな金額だ。そのお金でビールを買って家で飲もうかという気になる。
しかし、オーストラリアで学生をやっていたころは、よく映画を見に行った。大学構内に映画館があり、学生なら200円程度で映画が見られたのである。
いろいろ見た中にキューブリック監督の「時計仕掛けのオレンジ」がある。知っている人は知っていると思うが、何とも不思議にぶっ飛んだ映画である。人が全裸になる場面も出てくるが、「いやらしい」場面ではなく、爆笑を誘ったり不条理な感じを作り出すのにうまく使われている。ホントに面白かった。
実はこの映画、日本でも一度見たことがあったのである。そのときには、全裸の人が出てくる場面になると、登場人物の体の一部にグシャグシャとした線がかぶさるように細工されていた。そのときには、「うわぁ、いやらしい場面なんだ」と思ったものだ。
なぜ、グシャグシャ細工を施すといやらしくなるのか。答えは簡単、グシャグシャした人がそう思っており、その意図が見ている側に伝わってくるからである。つまり、「この場面はいやらしいですねぇ、だからこうしてグシャグシャしておきましょうね」という人の気持ちがこちらに伝わるのである。
しかし、少なくともこの映画の場合、残念ながらそれははずれている。(もっとも、日本におけるグシャグシャ加工という不条理な習慣によって、この映画の持つ批判精神にヒネリが加わったという高尚な観賞の仕方もあるかもしれない。だがそれは別の次元の話だ。)映画を作った方は、いやらしくしようと思ってその場面を撮ったのではない。そして事実、グシャグシャなしで見たら全然いやらしくなかったのである。
ニュースなどでよく使われる「わいせつ行為」も不思議な言葉である。「調べによりますと、○○容疑者は、この中学生をホテルに連れ込み、未成年と知りながらわいせつな行為をしたものです」などと言う。なぜ「性行為」と言わないのだろう。同じ行為が、時と場合によって「わいせつ行為」になる。それは、わかる。しかし、その判断を勝手にテレビ局がしても良いのか。相手が成人だったら「わいせつ行為」にならないのか。それとも相手が配偶者でなければ「わいせつ行為」なのか。
しかし、そこまで考えている様子もない。ただ、何となく目をそむけておきたいから「あぁ、バッチイ。まぁ、いやらしい」という感じで「わいせつ行為」のラベルを貼っているだけのようである。
もう一つ。やはり学生のころ、オーストラリア人の友人にいわゆるポルノ雑誌の類を見せてもらったこともある。それはもう、医学的解剖学的な興味しか呼び起こさないような夢も希望も失せると~んでもない写真もあれば、なまめかしく迫るのもあり、実に様々だった。そのとき不思議に思った。町の本屋に行っても、そんなもの売っていないのである。「どこで買ったの?」と聞くと、「決まってるだろ。行くとこに行って買うんだ」と言っていた。
その点、日本はスゴイ。コンビニに行くと、強烈なヌード雑誌が山ほど陳列されており、幼児がそれを不思議そうに眺めていたりする(そして近年、突然それに気がついたかのように振舞っている)。町の書店の店頭もそうだ。電車の吊り広告もそうだ。普通の新聞を開いても、雑誌の広告などにはとんでもなく露骨な写真や言葉が並んでいる。これが映画にグシャグシャ加工する国なのかなぁ、と思う。
これが米国だったらどうなるかねぇ、と米国人の同僚に聞く。「そんなもの、アッという間に逮捕されるよ。第一、子供が見ちゃうじゃないの」という反応がほとんどである。
文化の違い、お国柄の違いでは済まされない何かがある。日本では、「まぁいやらしい、はしたない」とスグ騒ぐ割には、明白な悪質ポルノ本を野放しにし、それが子供の目に触れる状態を保っている。何かを直視しないのですな。
(以上、『英語という名のコントロール』に入らなかったボツ原稿より。失礼しました… m(_ _)m
しかし、オーストラリアで学生をやっていたころは、よく映画を見に行った。大学構内に映画館があり、学生なら200円程度で映画が見られたのである。
いろいろ見た中にキューブリック監督の「時計仕掛けのオレンジ」がある。知っている人は知っていると思うが、何とも不思議にぶっ飛んだ映画である。人が全裸になる場面も出てくるが、「いやらしい」場面ではなく、爆笑を誘ったり不条理な感じを作り出すのにうまく使われている。ホントに面白かった。
実はこの映画、日本でも一度見たことがあったのである。そのときには、全裸の人が出てくる場面になると、登場人物の体の一部にグシャグシャとした線がかぶさるように細工されていた。そのときには、「うわぁ、いやらしい場面なんだ」と思ったものだ。
なぜ、グシャグシャ細工を施すといやらしくなるのか。答えは簡単、グシャグシャした人がそう思っており、その意図が見ている側に伝わってくるからである。つまり、「この場面はいやらしいですねぇ、だからこうしてグシャグシャしておきましょうね」という人の気持ちがこちらに伝わるのである。
しかし、少なくともこの映画の場合、残念ながらそれははずれている。(もっとも、日本におけるグシャグシャ加工という不条理な習慣によって、この映画の持つ批判精神にヒネリが加わったという高尚な観賞の仕方もあるかもしれない。だがそれは別の次元の話だ。)映画を作った方は、いやらしくしようと思ってその場面を撮ったのではない。そして事実、グシャグシャなしで見たら全然いやらしくなかったのである。
ニュースなどでよく使われる「わいせつ行為」も不思議な言葉である。「調べによりますと、○○容疑者は、この中学生をホテルに連れ込み、未成年と知りながらわいせつな行為をしたものです」などと言う。なぜ「性行為」と言わないのだろう。同じ行為が、時と場合によって「わいせつ行為」になる。それは、わかる。しかし、その判断を勝手にテレビ局がしても良いのか。相手が成人だったら「わいせつ行為」にならないのか。それとも相手が配偶者でなければ「わいせつ行為」なのか。
しかし、そこまで考えている様子もない。ただ、何となく目をそむけておきたいから「あぁ、バッチイ。まぁ、いやらしい」という感じで「わいせつ行為」のラベルを貼っているだけのようである。
もう一つ。やはり学生のころ、オーストラリア人の友人にいわゆるポルノ雑誌の類を見せてもらったこともある。それはもう、医学的解剖学的な興味しか呼び起こさないような夢も希望も失せると~んでもない写真もあれば、なまめかしく迫るのもあり、実に様々だった。そのとき不思議に思った。町の本屋に行っても、そんなもの売っていないのである。「どこで買ったの?」と聞くと、「決まってるだろ。行くとこに行って買うんだ」と言っていた。
その点、日本はスゴイ。コンビニに行くと、強烈なヌード雑誌が山ほど陳列されており、幼児がそれを不思議そうに眺めていたりする(そして近年、突然それに気がついたかのように振舞っている)。町の書店の店頭もそうだ。電車の吊り広告もそうだ。普通の新聞を開いても、雑誌の広告などにはとんでもなく露骨な写真や言葉が並んでいる。これが映画にグシャグシャ加工する国なのかなぁ、と思う。
これが米国だったらどうなるかねぇ、と米国人の同僚に聞く。「そんなもの、アッという間に逮捕されるよ。第一、子供が見ちゃうじゃないの」という反応がほとんどである。
文化の違い、お国柄の違いでは済まされない何かがある。日本では、「まぁいやらしい、はしたない」とスグ騒ぐ割には、明白な悪質ポルノ本を野放しにし、それが子供の目に触れる状態を保っている。何かを直視しないのですな。
(以上、『英語という名のコントロール』に入らなかったボツ原稿より。失礼しました… m(_ _)m